鹿児島の達人「天文館どっとこむ」 >> 鹿児島天文館学
鹿児島天文館学
掲載日:2004年12月10日(金)
第1回:新名所「おはら通り」
南日本新聞記事「おはら通り」について もう知っている人はほとんどいないが、昔、天文館に「おはら通り」という通りがあった。
 添付のぼやけた写真は昭和24年12月、通りができたときの南日本新聞の記事である。写真は天神馬場から写したものか、電車通りからか、はっきりしない。
(南日本新聞 記事)


 「鹿児島の繁華街、天文館の道路はそれぞれの装いをこらして文化街をかたちづくっているが、今度、樋渡ミルクホールの横から天神馬場へつらぬく道路にその名も郷土にちなんで「おはら通り」として、ちかく客足の吸収に目新しい趣向を施すことになった。この通りには樋渡ミルクホール、小劇 、割烹、有村パンなどが軒を並べており、こんど、文化通りに仲間入りして、ますますにぎわいを呈するものと見られている(写真はおはら通り)」



 図は同じ日の新聞広告である。
 この広告にない店もあったと思われるが、今も屋号がそのまま残っているのは「松木呉服店」だけである。ミルクホールは和製英語milk hallで、牛乳を飲ませ、パンなどを売っている簡単な飲食店のことで、私にはその語感に懐かしい響きがある。樋渡ミルクホールは終戦直後の当時としてはハイカラな今の喫茶店風の店だったと、同じ通りに昭和30年頃に開店した、分家無邪気のお母さんがいっていた。同ホールは昭和21年6月に西駅(中央駅)前電車通りに開店し、翌年の11月ころにはおはら通りにも開店し、吉田舟水画伯という人の日本画展覧会を開いたりしている。


 小劇は昭和23年8月に山形屋1階にあった「山形屋映画劇場」が移転してきたものである。小屋の前身は「文芸座」という新劇劇団の専属の小屋で「文化劇場」といった。劇場は昭和21年11月に落成している。文芸座の座長は寺園純夫という人であったが、広告の大衆食堂・やき鳥「文六」にある寺園純夫という人と同一人物ではないかと思っている。昭和20年代初めの鹿児島の演劇運動にかかわった人である。文六は分家無邪気が、若竹は吾愛人がある付近である。松露のところが黒岩ラーメンである。


 昭和40年ころだったか、電車通り側の日置荘付近の地下に「ムーラン」という、とびきりの美人ばかりのいるスナックバーがあった。そこのレジ係をしていたHさんは、のち、山之口本通りで人気のある、いいスナックをしていたが、平成5年の8・6水害で浸水してしまった。その後、2年ばかりほかのところで営業していたが、数年前、病気でなくなった。才色兼備の魅力的な女性だった。


 現在、通り名は使われてはいないが、この通りは天文館でも指折りの通りではないかと思う。ざっと見ても、鹿児島名物のラーメン店が3軒もあり、鹿児島市を代表するおでん・焼き鳥店が3軒、女性に人気のある喫茶店、レストラン、市内ではほとんど見られなくなった老舗の呉服店、時計店、すし屋、最近できた郷土菓子店、そば店もある。映画館と書店、特に、あの小劇が残っていたら最高の通りであったと思う。映画館を再建できないか。個性のある小さな店が並ぶ通りは魅力的である。
■著者 唐鎌 祐祥 からかま やすよし
■著書 「天文館の歴史(かごしま文庫5)」・「鹿児島の劇場・映画館史(執筆中)」
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