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鹿児島天文館学
掲載日:2005年3月31日(木)
第4回:千日通り
タカプラ裏の通りを「千日通り」と言うことを知っている人は少ないのでは。
相変わらず昔の話で、新しい天文館の街づくり参考になるとも思われないが、知ったかぶりのネタぐらいにはなるかもしれない。

千日町は昭和38年に山之口町などから分離してできた町で、その町名は千日市場によると地名辞典は書いているが、その市場の名称はこの「千日通り」に由来すると思われる。
大正7年7月8日の鹿児島新聞に「鹿児島に千日通りができた」という記事がある。「鹿児島座の横町、料亭西海の前通り、即ち喜楽館前から日置裏門通り(今の文化通り)にでる通りは従来名称がなかった。今回、西海の藤元、鹿児島座の花田、その他付近の吉崎、松川の諸氏が発起となり寄付をつのって、下水道を設け路面を改修し、見違えるほど立派になった。そこで名称をつけることになり、近来、鹿児島座の前通りを誰れ言うとなく鹿児島の千日前と呼ぶようになったのに因み、千日前通りと呼ぶことに協議し、昨日午後七時より西海で盛んな祝宴を張った」とあり、これが千日通りのおこりである。古い通りでこんなに通り名の起源がはっきりしているのは珍しい。

日置屋敷が明治44年に焼失し屋敷が分譲され、大正2年に劇場・鹿児島座(森永パチンコ付近)と、その前に活動写真常設館・メリー館(喜楽館)ができ、これが大当たりして山之口町天文館はたちまち盛り場に大変貌した。大正6年正月には活動写真館・帝国館(今の鹿児島東宝)も開場しそれに拍車をかけている。それで鹿児島市民は大阪の千日前(法善寺前)の大衆娯楽街にちなんで「鹿児島の千日前」と誰いうとなく呼ぶようになったのであろう。なお、大正11年に千日市場、天文館市場、山之口市場が一度にできている。
大正8年1月には「山之口町千日通りは道路狭隘をつげつつあるので、今回の日置屋敷の火災を期に道路拡張をすることにし、道路両側に三尺づつをとり広め4間余りの道路とするが、下水道も市より設定する計画にて、本日は関係地主代理者を市役所に呼び出し右に関する交渉をなす。右所有者は故島津久明男並びに宇都宮金之丞氏の所有なりと。千日通りは繁華の土地柄なので、今回の道路拡張は今後界隈のためにはこのうえなき至便を感ずるにいたるべし」(鹿児島朝日新聞)とあり、通りの発展ぶりを記している。島津久明男爵は旧日置郷の領主で、旧藩時代、千日通りから山之口馬場までのほとんどが日置屋敷であった。

大正の終りころから鹿児島市にもカフェーができるが、その中心は千日通りで、有名なミガド、プランタン、ニコニコ、吾妻庵などがあった。カフェーの女給さんたちは白いエプロンを蝶々に結び長い袖を翻していた。街では女給と七高生とに生まれたはかない恋がよく噂された。
華やかな歴史をもつ千日通りであるが、天文館通りからの入り口に自転車がたまり、なんとなく通りが薄暗く、通りにくい街になってしまっている。鹿児島の「法善寺横丁」になりうる場所がらなのに残念だ。
■著者 唐鎌 祐祥 からかま やすよし
■著書 「天文館の歴史」(かごしま文庫5)・「鹿児島の寄席・劇場・映画館史」(執筆中)
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