鹿児島の達人「天文館どっとこむ」 >> 鹿児島天文館学
鹿児島天文館学
掲載日:2005年6月27日(月)
第6回:「戦時中の天文館」

戦時下(昭和12〜20年?)の鹿児島市民の生活についてはほとんど知られていない。空襲については比較的しるされているが、市民の日常生活についてはあまり語られていない。今となっては新聞の記事によるしかないが、それもほとんど本音は語られていない。当時の新聞は検閲のせいか意味の通じない記事がよくあるが、戦時下の天文館の断面を拾ってみた。

昭和19年になると労働力不足、物資不足は深刻であった。特に食料の不足は深刻で鹿児島市街地の空地に甘藷、南瓜、蔬菜などの栽培が強制的に進められていた。昭和19年3月5日に警視庁は決戦非常措置により、高級料理店(精養軒など850店)、待合芸妓屋、バー・酒店など享楽部面を閉鎖するが、鹿児島も同じく5日から料理屋が一斉休業となっている。鹿児島日報は4日に夕刊を中止し、朝刊は4頁(月曜・木曜は2頁)となっているが、貴重な紙面を割いて2日から5日にかけ「享楽の門に釘」という連載記事を載せている。次は4日の「女給の名も消え、健康体に還る天文館」という記事の一部である。「享楽の門」というのは天文館のことであろう。

「決戦非常措置による天文館のカフェ−街の営業が4日から停止された。カフェ−というのは旧態の呼び名で、正しくは特殊割烹店である。戦局の推移に即応して、漸次その姿を変えてきた。女給も従業員となり、勤労奉仕作業に汗を流し修養、錬成、献金などに勤めてきた。勝つためにはカフェーなどの休止は当然のことである。2月25日の整備によって、アジア、日輪、麗人といったところの11軒が廃業、残り19軒の南風荘、光、道頓堀などが産業戦士の慰安場所となった。鹿児島の特殊割烹店と東京、大阪のカフェ−とは趣をことにしていたところも確かにあった。

試みに鹿児島のカフェ−の消長をたどれば、白いエプロン姿を見かけるようになったのは大正末期、すなわち大戦景気を受けて、日輪や水色、コンパル、道頓堀、黒ネコなどの店があり,ビヤホ−ル時代があった。それがカフェ−となり、昭和二、三年へかけて全盛をきわめた。赤い灯、青い灯のネオンの華やかさも今にして思えば極悪な色彩だった。雨後の筍のように乱立していった。カフェ−は自由主義的な花を咲かせて、電気蓄音機に退廃的な唄を巷にふりまいて喧噪を極めた。曰く、籠の鳥、銀座の柳、女給の唄、等等、それが昭和12年の支那事変前まである種の雰囲気を作っていた。一方、女給にしても土地のものばかりではなく、京阪から引いて、盛時には、いきな年増からインテリまでがいるといふ雑多な有様で錦紗の袂に脂粉の香まき散らしたものであった。だが芸妓に比べ女給気質などはうすく、淡く生まれて、はかなく萎んだ花々といえよう。女給の数は、昭和の初めの全盛期で二百五十人を数えたものが、大東亜戦争が始まった頃は百五十名に減り、現在八十名になっていた。

鈴蘭通りのカフェ - 街

さて、十九軒の特殊割烹店と従事者はどこへ行く。軒を並べた店はガランドウになって、テ−ブルやボックスには二、三日もしたら埃が積もるだろう。それはとにかく修養や錬成に魂をきたえた営業主や従業員たちはすでに昔日のそれではないこと、今日にいたることは予想もし、覚悟もできていたのである。産業戦士となって決戦職域に赴いたものが幾人か数えられている。東亜から掘田木工工場に出て塗にまみれているもの、更に田辺○○工場、高千穂電気に、前線の死闘に応える挺身乙女の意気を盛って油と汗にまみれて、見事な転身ぶりには感激を呼んでいるのだ。ここ天文館の享楽街には業務停止に一時的な衝撃はあっても、薩摩乙女の血は失われず、勝利へ敢闘の熱意を湧きたたせているのである(写真は鈴蘭通りのカフェ−街)」

話に聞くよりも、カタカナの敵性語が結構使われているが、文中に「試みに鹿児島のカフェ−の消長をたどれば」とあるが、とくにこの記事の中でカフェ−の消長をたどる必要もないようであるが、ひよっとすると、この記事を書いた記者の本音は数年前までの盛り場天文館へのレクイエム(死者の冥福を祈る挽歌)なのかもしれない。

■著者 唐鎌 祐祥 からかま やすよし
■著書 「天文館の歴史」(かごしま文庫5)・「鹿児島の寄席・劇場・映画館史」(執筆中)
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