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鹿児島天文館学
掲載日:2005年2月26日(土)
第2回:正月の松原神社境内@(サーカス興行史)

 鹿児島市では正月行事として県庁や市公会堂で、午前11時から年始会(名刺交換会)が行われ、2千人余りのフロックコートや羽織袴の紳士が集まった。それが終わると12時過ぎ頃より、天文館通りから松原神社境内にかけて市民がどっとつめかけ、映画や仮設興行の見物客で身動きできないほどであった。

 特に松原神社境内のサ−カスと、それについてきた見世物は市民とって待ち遠しい正月の楽しみであった。昭和43年1月に境内の一部に電報電話局の社屋ができるまで、松原神社境内は、終戦の前後を除き、毎年サーカスが興行され、市民の正月の遊び場として賑わった。その松原神社境内の正月のサーカスについて今回は述べてみたい。

 松原神社は南林寺といい大中公(15代島津貴久1514〜1571)の菩提寺であったが、明治2年の廃仏毀釈で廃寺となり、跡に神社が建てられ、同寺の山号をとって松原神社となった。江戸時代、同寺の夏祭りは城下有数の祭りであったが、正月に見世物で賑わうところであったかどうかははっきりしない。しかし、明治15年頃にはもう軽業などの興行で賑わっている。
 明治30年にはすでにいろいろな見世物があり、ひととおりならぬ繁盛をみせている。天文館から境内にかけての道路に並ぶ露店に混じって「カステラ打ち」というゲームが盛んに行われていた。明治42年の記事には東京浅草公園のように賑わったとある。
 大正時代に入ると、今の千日町天文館通りには帝国館、喜楽館、太陽館などの活動写真館が並びキネマ街といわれた。そして、大正2年ころから曲馬団(注3)が鹿児島で興行をはじめ、大正10年の正月には「日本サアカス団」という本格的なサーカスがやってきた。その後、松原神社境内では毎年、正月にはジンタ(小さな吹奏樂隊)が吹奏する「天然の美」のメロディーが流れた。

  次ぎは松原神社境内の正月の賑わいを記した記事である。若い方には読みづらいかもしれませんが、辛抱して読んでみて下さい。
▼(明治15年4月、鹿児島新聞)
「先日来、松原通り松原神社の境内にて興行する軽業はかなりの人気にて、相応の景気なれば技芸も中々のことと見へ・・」
(注1) 鹿児島新聞は明治15年2月から発刊されているが、明治29年まではごく一部しか残っていない。明治30年以降についてはほぼ県立図書館に保存されている。


▼(明治30年正月、鹿児島新聞)
「松原神社境内は例年の如く諸種の見世物、飲食店など開かれ、四方より松原神社もう詣でがてらに集い来る老若男女、山を築き、ひととおりならぬ繁盛を見しが、中にも名物のひとつに数えられるカステラ打ちなど相変わらず盛んなり」
(注2) 台にのせた戸板にカステラを10枚ほど重ね、それをモチのボールで投げ落とすとすゲーム。打ち落とした者(チーム)は賞金がもらえたので、過熱して警察のお叱りを受けることもあったと言う。今ひとつ、筆者にも分からないところがあるが、大正の中ごろまで行われていた。

▼(明治42年正月、鹿児島新聞) 
「正月三日、人あし、最もしげき松原神社の境内は今年も例年に劣らぬ雑踏にて諸種の興行物あり。かすちょうら粕丁羅う打ちあり。東京浅草公園を麑城の天地に現したようにて、俗気紛々、大中公の霊地を汚す感あれど、これも繁盛のひとつ、捨てたものにあらず」

▼(大正10年正月、鹿児島新聞)
「日本サアカス団の一行は市内のここかしこに春をもたらして人寄せをした。松原神社横手の空中大飛行、猛獣使い、大曲馬団の合間には白い着付けの少女が黒馬に乗って駆ける。神社内の珍無類の曲芸は第2部。第3部は天文館通りの鹿児島座の跡(今の森永パチンコホール付近)に動物園を開いて、木戸口で褐色の蛇を右手につかみながら六、七匹の塊としてうねうねとうねらしながら客を呼んでいた。目白押しになった見物客が重なりあいながら引ったくる様に、木戸札を買い争ひ、前の活動写真小屋の小旗や楽隊の音がこれを囃し立てている。
ここから松原神社境内までの通りの右と左にはにわ俄かの出店が並び、砂糖細工の小鯛だとか、鋳型煎餅を焼いて小笹の先に着けては売っている。正月の小店にはつきものとなった、運だめしの小車盤(おくるまいた)の賭物に人々がポンポンと金をはっては引札を買っている。「サアサア、はったはったと叫びながら小車盤が回るたびに当たりの人に商品の敷島煙草を投げ出す。これが神社境内まで五軒も六軒もある」

▼(大正11年正月、鹿児島新聞)
「天文館通り プカプカドンドンの活動写真は帝国館、喜楽館、太陽館。世界館など昼夜二回の興行。今日をかき入れ日とばかり囃し立ているので、鳥打帽の丁稚小僧連から、子供の手を引いた職人風のお父さんらしいのが続々と詰めかけ、相変わらずの大賑い。松原神社の境内は矢野動物園(サーカス)の曲馬団や動物園、はては各種の見世物、眼鏡芝居など耳を聾するばかりの楽隊の音に雪崩のように打って来る見物人や野次馬連も呑吐して、どこも大入り満員の盛況である」

(注3) サーカス(曲馬団)
移動テントや円形劇場で、曲芸、奇術、軽業などを演じ、動物芸や道化芝居も行う見世物。近代サーカスは1770年ロンドンで曲馬やアクロバットなどを加え興行したアストリーに始る。のち、ドイツのハーゲンベック、米国のバーナムなどのサーカス団が国際的に著名になる。その後、空中ぶらんこ、オートバイ曲乗りなど大掛かりな演目も多くなり、各国で盛んとなる。
日本では軽業、足芸、曲馬など個々の見世物が存在したが、1886年イタリア人チャリネが東京秋葉原で興行して評判となって以後、西洋風のサーカスが行われるようになり、有田、木下、シバタなどの大サーカスも組織された。なお、大正期まで曲馬団といわれ、昭和になってからサーカスの呼称が定着した。(日立システムアンドサービス 「マイペディア」)


■著者 唐鎌 祐祥 からかま やすよし
■著書 「天文館の歴史」(かごしま文庫5)・「鹿児島の寄席・劇場・映画館史」(執筆中)
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