此の通り(御着屋交番を中心として電車通り迄)と西本願寺迄の一帯が鹿児島で一番早く栄えたといわれる。
それはこの2つの通りに面して俊寛堀(鎌倉時代に俊寛が出港した堀割)と御着屋(迎賓館や評定所、仕出屋)が有り特に此の通りには小型のスーパーやデパートに類する店も有って大変賑わったと言う。
今から267年前、藩主の命で薩摩の町をゴンザ達は大阪(島津継豊の正室)へ向け出港、その船(ワカシワ丸)には、米や絹織物など結納品と思われる20種位の品々が積まれていた。しかし出帆後嵐に合い約半年余りでカムチャッカに漂着したが、コサック隊とカムチャダル人に襲われ父を含む15名が殺され辛くも生き残ったのは11才のゴンザとその伯父のソーザだけであった。その財宝は山分けされていたが後に代官の知る所となり隊長は死刑となって財宝は国庫に収納された。2人は2年間酷使された後、3年かかってペテルブルグへ連行され、迎賓館にて接見した女帝アンナは、上手にロシア語で返答するゴンザに驚き日本語学校を建てその先生に任じた。間も無くソーザが43才で死亡、その数日後から日露(正確には露薩)辞典六冊の編集に挑み19才半迄で脱稿、歴史上かつて無かった寒さの中、クリスマスやお正月を目前に1739年21才でその生涯を閉じた。その語彙は12,000語とも16,000語とも言われ有名な東洋学者バルトリドを初め「天才少年としか言い様が無い」と言う学者が多い。
此の辞典には今や全く使われなくなった鹿児島弁やロシア文字、スラブ語も多く、特に鹿児島弁については特殊化して行く過程を研究するのに超一級の資料となっている。
ゴンザの乗船は僅か10才で恐らく初航海であり、大阪見物の楽しさもさる事ながら当時は2年続きの大飢餓のため、いつもは笹の実を食べていた。そのため子供心に積み荷の米を食べられる喜びもあったようです。いずれにしても親子共々出港を前に胸膨らませつつ此のゴンザ通りで旅路に必要な品々を買い揃えたことであろう。
私達はこのゴンザにあやかるべく通り名も「ゴンザ通り」と改めお客様第一を旨として共存共栄の実を挙げんとするものであります。 |